2014年3月8日土曜日

楽しかったよ どんぐり祭


 6年目を迎える新婦人・里山にどんぐりを植えよう会の「どんぐり祭」は、今年も井上果樹園さんの庭で開催されました。田主丸の井上さんの庭は、梅の古木が満開で庭の奥にある「ほだ木」には、しいたけがいっぱい出ていました。駒打ち・どんぐりのたね植え・しいたけ狩りなどを体験して、子どもたちも大人も楽しいひと時をすごしました。
 「里山にどんぐりを植えよう」は、CO2削減・子どもたちに自然に親しむ機会をつくる・自然の恵みを頂くことを目標にしています。東日本大震災以後は、震災の翌日が丁度「どんぐり祭」だったこともあり、以来震災支援も目票のひとつとなりました。
 数年前、子どもたちが植えた種が植樹をするまでに育ち、2月にはうきは森林組合さんに苗木100本を贈呈し、日田との県境にある真美野という山林の一角に植樹しました。一人ひとりの思いをこめたメッセージを書いた木の札を苗木に結びつけて、木の成長を願いました。
 「里山どんぐり」は、今3歳のこどもが種を植えて、20歳になる頃、植えた種が木に育ち、ほだ木としてしいたけができるまでになります。成人式をしいたけでお祝いしようという長い取り組みです。また、どんぐりで「コーヒー」や「どんぐりごはん」など、「どんぐり」も食べられることを伝えていきたいと思っています。
 縄文時代はどんぐりは主食でしたし、山にすむ動物たちもどんぐりを食べるものがいます。飢饉や災害のときはどんぐりを思い出してほしい。
 春になると、黄砂、PM2.5で九州はマスク人が増えましたよ。目にはマスクできませんからめがねと帽子をかぶって、「犯人スタイル」の人が増えています。どんぐり植えて木を植えて、マスクなしで歩ける春を楽しみたい物です。
                         











                                                                                                  


                                                                                              (今号は樋口裕子が書きました)
 
 

 

2014年2月10日月曜日

ことし初 雪の九千部山


1月には九千部山に2度登ったが、2度とも積雪なし。しかるに、数日前からの全国的な大寒波報道。今度は間違いないと確信して登る。7:30駐車場スタート、12:40下山。天気は曇りときどき雨(みぞれ)。登山道わきの灌木が、雪や氷雪の重みで傾いでいて、ウェアを濡らすので、終始ヤッケを着て行動。アイゼン不着用。所要時間は、雪のせいで普段より20分くらい余分にかかる。 

肝心の雪は、城山頂付近で木の根周りにちらほら現れ、中間林道(高度約640m)から上でずんずん厚くなり5-7cm。見上げる高木の小枝には、薄い霧氷もできている。陽が翳っているのが惜しい。

雪は一昨日以前に降ったものらしくシャーベット状で、足を踏み込むたびに、ガオーガオーと音をたてる。また、頭上の梢からは、氷雪がぼとぼと落ちてきて、頭やザックを打つ。数日前にはつよい風が吹いたが、そのせいで折れたと思われる枝が雪面に散乱し、なんともにぎやかである。縦走路に出ると、九千部山はカットして、石谷山に向かい四阿屋に下山。今年初の雪山はこうして終了。 

上に書いたように、九千部山に1月には2度登ったが、初登りのコースタイムは昨年並み。もう少しは続けて登れるような確信を得、2度目は「新鮮な酸素を取り入れてリフレッシュしたい」という、いままで登ったことがない二女との山行。こちらは歩きながら、過去に記憶がないほどの対話で、親子のコミュニケーションを増強。

また、5年を超えたトレーニングジム通いの初トレでは 、ジム内の計量器で計測したところ、昨年八ヶ岳以来の減量を維持してBMI21.6、内臓年齢は52才をマーク。お迎えは、まだはるかにというところらしい。

 

 

2014年1月29日水曜日

「沖縄本島と伊江島を訪ねる旅」ツアーに参加して


 新日本婦人の会川越支部有志と富士国際旅行社が企画・実行した、19日から3泊4日のツアー「沖縄本島と伊江島を訪ねる旅」に、妻とふたりで参加しました。参加者は総勢26名(添乗員除く)。私たち2名を除く24名(うち男性は2名)は、埼玉・東京・栃木からの参加で、私たちは福岡空港から、ほかは羽田から搭乗し那覇空港で合流しましたが、すぐに打ち解けました。 

 というのは、那覇空港バスターミナルで、貸し切りバスに乗り込むと、新婦人・川越支部の代表が、ツアー計画時に参加者が25名を超えた場合には、旅行社が一人につき2千円のボーナスを出す契約をしていたが、26名になったのでこれが支払われます。ついては、全員のボーナスを基地反対でたたかっている、辺野古・伊江島・東村高江の三ヶ所に贈りたいと思いますが、どうでしょうか?と提案。全員一致で可決された瞬間から、参加者のこころがひとつになったのでした。 

辺野古のテント前で説明を聞く

初日に訪ねたのは、故瀬長亀次郎氏が残した膨大な資料と、沖縄の民衆のたたかいを記録した、那覇市内の資料館「不屈館」。つぎに、周辺の戦跡見学を兼ねて、車で走ってもはしっても続く、広大な普天間基地と嘉手納基地見学。普天間には、問題のオスプレイが羽を休めていました。
ここからさらに北上し、うるま市で、映画「ひまわり」のテーマになった宮森小学校ジェット機墜落事件について、当時の先生から事故の生々しい状況を伺いました。夕食後、当日行われた名護市長選の、「当選確実」報道に沸く、市内の「稲嶺ススム選挙事務所」を訪問。沖縄の人々といっしょに「歴史的勝利」を祝いました。 

2日目は眼もさめるような遠浅の海を前に、新基地建設に反対してたたかっている、辺野古漁港のテント訪問。続いてうっそうたる樹海が広がる、北部の山原(やんばる)の東村・高江。ここはベトナム戦争時には住民をベトナム人に擬して、激しい訓練が行われていた、世界最大の米軍ジャングル演習地。こんどはここに住む住民を囲むように、直径75mの、オスプレイなどの大型ヘリ用ヘリポート6ヶ所を建設するための作業がはじまり、これが完成すると、貴重な動植物は絶滅し、住民は暮らせなくなるので、作業を阻止するために監視しているのです。
 
伊江島の「団結小屋」
3日目は、本島の本部半島から西北約9kの洋上にある伊江島。島の路傍には、黄色い菜の花が風に揺れ、島のシンボル・城山(通称タッチュー)には、ツバキやハイビスカスの赤い花が咲いていて、のどかに見えました。しかし先の激しい戦争では、住民と軍人の約4700人が戦死し、米軍が上陸してくると、残った住民は全員渡嘉敷島に強制移住させられ、2年後に帰島した後の1955年には、全島基地化を企図したブルトーザーと銃剣による土地取り上げがはじまり、これに反対する長いたたかいがつづいているところ。島内の現場と戦跡を観て回り、反対闘争の指導者・阿波根昌鴻氏が建設した「わびあいの里」を訪問し、「資料館」を見学したあと、謝花悦子代表から話を伺いました。
このあと本部港に戻ると、ツアー唯一つのお楽しみ、「美ら海水族館」の大水槽で泳ぐ、ちょうど給餌どきのジンベイザメ・マンタ・イルカなどを見て楽しみました。
また、同日夜は那覇市に戻っての自由行動。多くの人は「民謡ライブ居酒屋」に出かけましたが、私たち夫婦は、近海魚をアテに泡盛を飲ませる近くの居酒屋で、酒蒸し・唐揚げ・雑炊などを満喫し、泡盛を痛飲しました。
 
この日の朝、ホテルで見た新聞には、19日の選挙で埋め立て反対の民意が示されたばかりなのに、政府が辺野古の埋め立て工事などの、調査・設計を行う業者を選定する入札を公告し、「県から埋め立ての承認が得られているので、法令にしたがって着実に進めていく」と、防衛相のコメントが載っていました。
これが民主主義の国のやることか。いったい、どこの国の政府か! 怒りがふつふつと湧きました。 


伊江島のハイビスカス
4日目は「オプショナルツアー」として、「首里城と沖縄南部の戦跡めぐり」が計画されていましたが、私たちはこれには参加せず、那覇市の「那覇市歴史博物館」と国際通りの壺屋やむちん通りなどをぶらぶら歩き、壺屋焼きで小ぶりな飯椀を買ってきました。
那覇市の人口は33万人余、私が住む町とほとんど同じですが、新聞に「昨年の来島者600万人」と書かれていたのを裏書きするように、にぎやかで垢抜けしており、段違いの印象が残りました。 

帰宅して前泊博盛編著「日米地位協定入門」を開くと、哲学者・高橋哲哉東大教授は、米両政府を「宗主国」、沖縄を「植民地」と位置づけておられると 紹介されていますが、私も沖縄をはじめて訪ねて、同じように、沖縄はアメリカと日本政府から植民地なみに虐められている。不正義きわまる! 日本人としてこれは変えねばならぬとつよく感じました。そして同じ本にあるよう、日本の主権を奪って、「全土基地方式」を定めている日米安保条約と「日米地位協定」を破棄しなくてはならぬ、そうしてこそ、辺野古もやんばるも伊江島も、平和にできると思ったところです。

2013年12月30日月曜日

九千部山雪化粧


 東京で暮らしている息子は、それまで見向きもしなかった山登りに、どういうわけか、3年前から夢中になって、このところ年間50日くらい登っている様子です。仕事が休みの日にはたいがい山行している勘定で、休み明けの「ヤマレコ」には、決まって山行記録が更新されています。 

28日の帰省に際しても、九州の山に登るつもりで、大型ザックを背負ってきて、29日は九千部山でいいから登ろうとせっつきます。このため、大掃除は一日延期して、親子ふたり九千部山に登ってきました。九千部山に登るのは、息子ははじめてで、私にとっては今年22回目です。 

 私たちへのご褒美でしょうか、九千部山はこの冬はじめて、純白の雪をまとっていました。雪線は6合目くらいからで、山頂近くでは10㌢から15㌢、靴の甲が沈みます。陽がかぁーつと輝くと、
周囲は文字通りの銀世界でした。

2013年12月15日日曜日

「光輝好嶺者」の仲間入り


間もなく、ことしも終わります。ことしの山行回数は全部で33回、全部日帰りで、このうち9回は夏の八ヶ岳遠征時の山行、21回は近くの九千部山行き。あとの3回が久住山と釈迦岳・御前岳行でした。 

私が時々、「山友」のEさんに、九千部山行も80才までですよ、というからでしょう。先月、下に掲げた新聞の切り抜き「男の気持ち」を下さいました。これを読むと、86才で週1.2回は福智山に登り、ほかに自宅近くの足立山に登っておられる、「光輝好嶺者」が県内におられる由。いまのところ、私はどこといって悪いところはないので、精進すれば「光輝好嶺者」に仲間入りできるかもしれない、と師走の大掃除をしながら思いをはせています。

 



2013年12月2日月曜日

ドキュメンタリー映画「フード・インク」が教えるもの


 11月26日、当市の自主映画サークル「久留米稲の花」が上映した、アメリカの独占企業やこれと一体の政治家が支配する、アメリカの農業・食糧に切り込む米ドキュメンタリー映画・「フード・インク」(2008年制作)を鑑賞しました。題名のフード・インクとは、農業・食糧が消費者の安心・安全を前提に、風土や気象条件に応じて、行われなければならないのに、アメリカでは利潤第一をモットーに工業製品化され、安心・安全は二の次で提供されている実態を指して、批判していると理解しました。 

大地の上を動いているのは大型コンバインだけの、地平線までつづく人っ子ひとりいない農場。立ち並ぶ馬鹿でかい鶏舎や牛舎。ただし鶏舎や牛舎の中は、排泄物にまみれた鶏や牛がぎゅうぎゅう詰めで、(悪臭に満ちて)います。家畜は十分歩き回れないので、足が弱ってよたよたとしか歩けず、倒れる鶏や牛も少なくありません。エサは先の農場で収穫されるコーンだけ。これには、成長促進剤や抗生物質が大量に混ぜられています。
このような飼育方法によって、通常の鶏や牛に比べて、肉を数週間早く市場に出せ、経費を減らし、利益もそれだけ上がるといいます。「強欲資本主義」のお手本のよう。 

出荷先の精肉工場。一刻の休みなく、ベルトコンベアのうえを流れてくる、牛肉と格闘しこれを切り裂く人。能率を上げるために、終日同じ作業をつづけます。切り裂かれた牛肉は、(おそらく、糞尿やBSE肉が混ざっていてもいっしょくたです)目をむくような大型ミキサーに放り込まれてひき肉にされます。

働いている多くの労働者は、もとは農業を営んでいましたが、寡占大企業に追われ、アメリカ産の安いコーンに押しつぶされた、メキシコなどからの移民などで、病気などに罹れば即刻クビ。そうなると、同じような労働者が、即刻連れてこられます。
また、農民を離農させている原因の一つは「種の保存」。モンサント社は遺伝子組み換え技術を用いて、コーンの種を独占し、自家製の種を用いている農民を高額な賠償訴訟で脅し、自社の種を用いない農民を農業から追い出しています。 

街中のマクドナルドやファストフードショップ。若いカップルや黒人家族に人気のメニューは、ご承知ハンバーガー。家でブロッコリーを買って料理を作るより、こちらが手間がいらず、安くておいしいからといいます。その結果、子ども、とりわけ貧困家庭の子どもに、肥満と糖尿病が広がっています。
私は未だかってマクドナルドに入ったことがありませんが、この映画のグロテスクな画面を観ていると、ハンバーガーをとても食おうとは思いません。その意味でも、若い人や子どもや孫に観てほしいです。 

安倍自民党とその補完勢力は、数々の悪政で暴走中ですが、TPP参加にも前のめりです。しかしそうなると、アメリカからフード・インク農産物がどっと入ってきて、日本の農産物と農業は踏みつぶされるでしょう。このドキュメンタリー映画はそう語り、小売り最大手のウォルマートが、消費者の商品の原材料表示などを求める運動に対して、一部妥協する場面を写し、食品の安全、生産の持続性を維持していくために、消費者が賢くならねばならないと訴えます。

 

2013年11月24日日曜日

敬老会のこと、子どもの甲状腺がんのこと


だいぶ前ですが、11月3日は校区の敬老会でした。被招待者は77才以上、私は新入りです。当日はあいにく雨でしたが、久しぶりに背広にネクタイをしめ、会場の小学校体育館まで、カミさんに車で送ってもらい出席しました。式典では、日の丸を掲げた正面舞台に向かって国歌斉唱。つづいて市長(代読)・地区主催者・地区選出県議・市議などの、似たようなお祝いの言葉がつづき、次は日舞・大学生のマジック・くじ引きなどのアトラクション。ひと昔前にタイムスリップしたような、紋切り型の約2時間でした。ただし、ボランティアの親切で熱心なお世話には、頭が下がりました。
昼過ぎ、弁当と菓子をもらって帰ってきました。 

主催者によると地区在住の77歳以上は約1,200人、式典出席者は約350人とのこと。翌日届いた地区の広報誌によると、地区の世帯数は5,754世帯、人口12,475人、うち男子6,144名とありました。77才以上はおおよそ1割というところのようです。 

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 23日付ネットの「共同」ニュースによれば、イチエフの放射能の影響を調べている、福島県の「県民健康管理委員会」の発表によれば、甲状腺がんと「確定」した子どもは、前月の18人から26人に増え、全員手術を受け経過は良好といい、星北斗座長は記者会見で「現時点で甲状腺がんが原発事故の影響で明らかに増えている訳ではないと理解している」と述べたと報じられています。 

和田誠さんのイラストです
では訊ねますが、甲状腺がんが子どもに頻発しているのは、どうしてですか? 1ヶ月の間に8人も増えたのはどうしてですか? 原発事故の影響ではないという根拠はなんですか? 

福島の事故に関わっている国や自治体の医者や学者は、福島から北九州に避難してきた塚本さんが「10.11集会」で指摘したように、どうも放射線被曝を軽く見せようとしているように思えてなりません。 

これも前々回のブログに書きましたように、事故から27年経ったチェルノブイリでも、半世紀以上前に「核のゴミ」を川や湖に捨てたロシアでも、放射能による各種の被害が、長期に亘って発生しています。アメリカの学者マンクーゾ博士は「放射線被曝は、交通事故と違って目に見えません。時間をかけて徐々に影響が現われてくるものです。結果が出るまで20年も30年もかかるんですよ。スロー・デス(時間をかけてやってくる死)を招くのです」(内橋克人「原発への警鐘」より)といっていますが、私たちはこれを明記すべきではないでしょうか。

2013年11月17日日曜日

「さよなら原発!11.10九州沖縄集会」に参加しました


 11月10日福岡市の舞鶴公園で行われた「さよなら原発! 11.10九州・沖縄集会」に妻と一緒に参加しました。あいにく当日は雨もよいの日和で、会場でも時どき小雨がぱらつきましたが、1万人を超える(主催者発表)「オール九州反原発集会」となり、主催者や各県代表のメッセージが会場に届き、集会が終了後、九電本社を目指してデモが行われました。ただし、家を出たのが9時過ぎ、帰宅したのは午後7時ごろで、くたびれてがっくりきたのも事実です。 

 集会では、九電本店前広場で抗議テントを張っている青柳行信さん、九大副学長で政府事故調メンバー吉岡斉氏、「3.11行動する会」の中嶌哲演・矢部忠夫・秋山豊寛・広瀬隆さんなど、反原発で有名なメンバーのあいさつやメッセージにも共感しましたが、玄海町に住んでいるという、佐賀県代表の「九電が再稼働を申請したのと並行して、玄海原発周辺道路は夕刻になると、作業員が帰宅時に大挙して通るのでラッシュとなっています」という言葉には、再稼働を阻止するため、反原発の声をあげ、運動の手を少しも緩められないと思いました。 

 また、集会の最後に福島県いわき市から、北九州市に移住してきた塚本清子さんは「いわきの住まいは原発から40k離れていますが、事故後、国や行政は放射能の危険を住民に一貫して隠したり、健康を損なうことはないと低くいったりしてきた。そのため、事故後も今迄通り屋外で過ごしていた自分や家族に、その結果としか考えられない下痢・鼻血・口内炎・鼻の中のできものができるなどの諸症状があらわれた。友人には白血病を発症した人もいます。国や行政のいいなりになっていると大変です」(要旨)と訴えて、多くの参加者を引き締めました。帰りのバスの中で、参加者が感想を述べ合いましたが、塚本さんの発言に最も多くの感想が出ました。塚本さん発言は、次のURLにありますから、ぜひご覧ください。http://ameblo.jp/kitakyu-mamoru/entry-11683413759.html 

私は塚本さんの発言をうかがって、放射能の怖ろしさを深く理解していない、いまからでも大いに勉強すべきではないか。いま焦点の「秘密保護法」ができれば、原発関係情報は今以上に秘匿されるのではないか、と思ったところです。
     
 
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例年八ヶ岳山麓で1ヶ月近く過ごすと、体重がおよそ2k減っていましたが、だいたい1ヶ月で元の木阿弥でした。しかし、今年はあやふやな膝の負担を少しでも軽くするため、8月末の帰宅以来 、①弟を真似て食事量を減らす ②コーヒを飲むとき、食べていた甘いものを控える ③九千部山とスポーツジム行を欠かさずに実行した結果、今日時点で八ヶ岳に行く前より4k、帰宅してから比2k減を維持しています。BMIは21.5前後です。後戻りできないように、ズボンのウエストも5センチ以上縮めました。長生きしたいとは思いませんが、これに相応しくアタマの方も若々しくありたいですね。 

2013年11月8日金曜日

NNNドキュメントが訴える 放射能の恐怖

 きのう暦では「立冬」でしたが、地元の九千部山は、秋真っ盛りです。照葉樹中心の同山ですが、山頂直下の自然林では、濃い緑の中にビビットな紅葉が混じっています。足元では、散り敷いた落ち葉が音を立て、シキミやイチゴは真っ赤な実をつけて、風にゆれています。

 さて、少し前になりましたが、10月28日放映の日本テレビのNNNドキュメント、「チェルノブイリから福島へ 未来への答案」、同じく11月4日放映の「消せない放射能 65年後の警鐘」は、放射能の深刻な被害を伝えて、改めて「原発ゼロ」の意をつよく感じさせられました。

 「チェルノブイリ…」は、爆発事故から27年が経ちましたが、放射能の威力は依然衰えず、廃炉作業は難航を極め、原子炉を覆っていた「石棺」は劣化し、これを覆う新しい石棺を作っている様子を描きます。周辺に住んでいた住民は強制移住を強いられ、相次ぐ病気に悩まされています。壊れかかった廃屋が散在する、草ぼうぼうの原野が、住民の悲しみを語ります。

 しかし画で見る限り、ウクライナ政府は(日本政府と比べ)住民の健康や暮らしに、まっとうな対策を講じており、廃炉作業についても、長引くことを見据えて、従事する技術者・労働者の育成に
取り組んでいるようで、場当たり的なフクシマとの違いも目立ちました。

 一方「消せない放射能…」。ロシアは半世紀以上前から、ウラル山脈の山懐に、マヤークと呼ぶ核関連施設を設け、プルトニュームを取り出し、高レベル放射性廃棄物を近くの川や湖に捨てていました。その結果、川下の住民の間に、手足のない子ども、膨れあがった頭を持つ子ども、首回りに巨大なこぶできるなどの奇病がつぎつぎに多発。政府は川岸を鉄条網で囲み、湖には土を被せたうえ、住民全員を強制移住させますが、移住先では仕事がなく、困難はつづいているという、深刻な実情を描いていきます。(このドキュメントは、以下のURLから、動画を観ることができます)http://www.at-douga.com/?p=9927

 
要するに、ふたつのドキュメントは、原発はいったん事故が起きればもはや手が付けられないし、廃炉にするにしても途方もない時間がかかる。「核のゴミ」は危険極まりない。核兵器もそうだが、原発も人間と共存することはできないと、静かに訴えます。

 当地では来る11月10日、福岡市で「さよなら原発 11・10九州沖縄集会」が開催されます。私たち夫婦も参加するつもりです。

2013年10月29日火曜日

小学4年 港を写生して特高に拘束された


 昨日(28日)は古い友人のEさんと九千部山に登りました。ちょうどお昼時に山頂に着き弁当を広げていると、Eさんがザックから新聞の切り抜きを取り出して、「朝日新聞が『語り継ぐ戦争』というテーマで、読者の投書を募集して載せているけど、読んでいる?」と訊ねられる。私が、ずっと前に止めたので、読んでいないというと、「これは22日に載ったのだけど、怖ろしいのよ。あたし、友達に見せたいのだけどコピーができない。あなたして…」といって切り抜きを渡されました。老眼鏡を持っていないので、そのまま持ち帰り、今日初めて読んで、スキャンしましたが、なるほど怖ろしい。
 

私は投稿者と同世代で、戦争中学校から市役所の前にあった「肉弾三勇士」の像を見に行った記憶はありますが、妊娠していた母と、難病で寝たきりの弟の三人で、うきはの田舎に疎開し、野山で遊びほうけていたので、戦争について大した経験はありません。しかしEさんとは、これまで政治の話などしたことがなかったので、ちょっと意外、意外!  これこそ、いま焦点の「秘密保護法」の本質やんか。


「朝日新聞」10月22日付

2013年10月23日水曜日

十八番の柿とほうれん草の白和え


 昨夜届いた「うきは農民連」からの産直野菜。水菜・ほうれん草・サツマイモ・里芋のほか、特産の柿・梨などが入っていました。で、今夜は十八番の柿とほうれん草の白和えです。 

 すり鉢でゴマを擂り、手作りのみそ・ねりごま・はちみつ・固く絞った木綿豆腐を加えて衣を作り、湯がいたほうれん草とサイコロ状の柿を和える。生成りの衣と、ほうれん草の鮮やかなみどり、柿の橙色が食欲をそそり、これで飲む酒は、ひとしを胃の腑に沁みます。 

 17日は、なじみにしている九千部山の前山で、城山(494m)とよんでいる勝尾城(かつのお城)遺跡について、鳥栖市麓町コミュニティセンターで、教育委員会の研究員による講演会があると、次女が教えてくれたので出かけました。 

実が熟れた九千部山のサルトリイバラ
パワーポイントを使った講師の説明によると、1499年に入部した筑紫氏は、現在の登山口に主館を、城山山頂と周辺の山頂に山城や砦を築き、周辺には家臣や住民の居住域を設け、福岡・筑紫・肥前・筑後の一部などを広く治めたが、1586年九州全域の支配を目論む、薩摩の島津勢に敗れて敗退。以後、山城は廃城になったが、遺構は残って、国の文化財に指定されている由。説明を聞いて、城山を越えて登る九千部山行が、いちだんと味わいをアップした次第。今月はすでに3回(1回約5時間)登りました。 

それにしても物忘れがひどい! 10日福岡魚市場で仲卸をしている同期入社のご婦人に、パソコンで写真・イラストを使った文書を作る方法を教えに行った帰り、帚木蓬生「白い夏の墓標」を読みふけっているうち、網棚に置いたお土産を忘れて電車を降り、エスカレータが間もなく改札のフロアに着くころになって思い出して、血相を変えてエスカレータを逆走。ただし、ホームに上がった時には、電車はすでに発車済み。大牟田終点で確保されたお土産を受け取ったのは、1時時間半過ぎでした。お土産は、鯛・あわび・うに・やりいか・サーモンキャビアなどでしたから、失くしたら大損害でした。なお、「白い夏の墓標」は 遺伝子組み換えを扱った作品で、TPPにも関係するところがある作品です。

 一昨日は酒を温めるため、酒を注いだ銚子をレンジに入れてオンしたあと、シンクに洗いかけの鍋を認めて、洗っている内に酒はチン。沸騰していました。複数のことを並行してやるのがムリなのです。 

 15日国会開催。先の参議院選挙で躍進し、議案提案権を得た日本共産党は、さっそく参議院に「ブラック企業規制法案」を提出しました。消費税・原発・TPP・集団的自衛権・秘密保護法など、安倍自民党は暴走をつづけていますが、これに待ったをかけるのは、共産党をおいてほかにありません。私はこれを応援します。

2013年10月12日土曜日

トレーニングジム通い5年

 
 市「清掃センター」併設のトレーニングジムに、週2.3回1回につき1時間通って5年になる機会に、ジムのスタッフと「ジム友」に下の「感謝状」を書いて差し上げました。

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トレーニングジム」に通うようになって、今月末で満5年になります。ここまで続けてこられたのは、ひとえに、スタッフの方が、いつも温かく、親切に迎えて下さったからにほかなりません。本当にありがとうございました。厚くお礼を申し上げます。
 

ほかに、長年通ってきたおかげで、同じように熱心にトレーニングをなさっている、アベさんや葉山さんなど、多くの方と声を掛け合うようになりました。これも継続して通って来る力強い支えとなりました。したがって、これらの「ジム友」にも感謝しております。

九千部山のきのこ(本文と関係ありません)
 

 5年前、はじめてこちらに来た時には、山から下ってくるとき両膝が痛むので、近くの整形外科で、膝にヒアルロン酸注射を継続して施しており、若い時から続けてきた山登りを、止めるかどうかの瀬戸際でした。しかし注射を止めて、ジムでエアロバイクとレッグエクステンションを中心に、体重の増加を抑え、大腿四頭筋を強化することに努めた結果、およそ1年でこれを克服、一時は着用していた両膝のサポーターを、今では脱ぎ捨てで全く使用しておりません。
 

 それでも次には、昔は何でもなかったのに、少しでも長く歩いたり、重いザックを背負うと、腰が痛むようになり、2011年1月には整骨院で治療を受けました。またそのあとには、雪山登山の途中、両大腿に電気が走って、歩けなくなることも経験しました。このため、ジムでは従来のメニューに加えて、腹筋・背筋や大腿のストレッチを行うようにし、以来、数多くの山行を問題なくこなしてきました。このように、トレーニング効果が目に見えてあがったのも、ここまで続けてこられた原因です。
 

 こうして2003年に「日本百名山」を踏破した後、縁あって、2005年から八ヶ岳山麓で自由に過ごす機会を得たので、一年に1ヶ月以上向こうで過ごしていますが、この5年間に登った代表的な山行をあげると、次のようになります。 


2009

赤岳(往復約8時間)。四国の主な山を知る目的で積雪期一回を含む3回。

2010

大川内山・熊伏山など長野県南部の山。桂木場から木曽駒ヶ岳(片道約8時間)

2011

阿弥陀岳(往復約8時間)。扇沢―針の木岳・蓮華岳(片道約8時間)

2012

島々―徳本峠(約8時間)テント泊―霞沢岳往復―上高地・小梨平(約11時間)。磐梯山(往復約7時間)。

2013

天狗岳(往復約7時間)。大岳(往復約6時間)エビ山(群馬県)

 

 歩くペースは格段に遅くなりましたが、御覧のように、歩く時間(距離)・登る力は、まだ残っています。もっとも、先月の13日は77才の誕生日でしたから、この先の時間はそれほど長くはありますまい。今後は健康のために、ぼちぼちやっていきます。どうか、これからもよろしくお願いします。

20131010日 樋口 文男


2013年9月27日金曜日

35日ぶり 秋風吹くなじみの山へ


 八ヶ岳山麓から帰宅して一ヶ月、8月末から9月初にかけては、6日つづけて雨降り、ほかは晴れて灼熱の日々。その間畑の草むしりと堆肥移動に16日集中しました。また、8月末には6人目の孫が生まれ、それに伴って息子が帰省、成長著しい上の5才の孫といっしょに我が家に3泊したのでその相手。ほかに、週2.3度のトレーニングジム通いを再開し、5月から痛んでいた歯の治療に通い、先日ようやく治療を終えましたが、今度は持病の偏頭痛が発症しで苦しんでいます。「隠居くらし」といい条、結構なにやかやとあります。

 

 そうそう、上に付け加えて、9月13日は77歳の誕生日、喜寿でした。息子夫婦から特注の焼酎を、参院選で52年ぶりに縁をつないだ、同級生からは豪勢な魚をいただき、これまでで最高のお祝いをしました。「余命表」によれば、余命はあと10年です。WHO2000年に公表した「日常的に介護を必要とせず、自立した生活ができる生存期間」をいう、「健康寿命」で終わりまでいきたいものですね。そのために努力しますから。

 

 さて、25日には35日ぶりに九千部山に登りました。照りつける日差しはまだ厳しくとも、森を渡ってくる風は爽やかです。前山の城山山頂には、コナシの実が3個転がっていましたが、登山道の干からびた落ち葉の上には、アオカシのどんぐりがびっしり落ちています。写真の植物も日当たりのいい道で、たびたび見かけました。帰りには銀杏の実を300粒くらい拾ってきました。

 

 イチエフの汚染水問題は、いよいよ深刻な様子です。一刻も猶予はできません。にもかかわらず、「コントロールできている」という首相は能天気なもので、原発再稼働や原発輸出に前のめりです。日本共産党は、先日 ①「放射能で海を汚さない」ことを基本原則にし、もてる人的・物的な資源を集中。②東電は破産処理を行い、株主・銀行・電力業界・原発利益共同体などには、応分の責任を問うなど とした「危機打開のための緊急提言」発表しましたが、1日も早く実行されるよう望むところです。

2013年9月15日日曜日

77才誕生日 喜寿です

桐箱の中には誕生日の新聞と昭和の年表あり
9月13日は77才の誕生日。喜寿です。「Yahoo百科辞典」によれば、喜には祝いの意味があり、草書では七十七と書くところから、これを祝うようになったとあります。そうか! 健康で喜寿を迎えてひと安心です。息子夫婦は、私の名前のラベルがついた、時代風呂敷き包み、桐箱入りのオリジナル焼酎を送ってくれました。(写真)

 また、先の参議院選挙に、50年ぶりの手紙で反原発を訴えた同級生のご婦人は、喜寿祝いに鯛・マグロ刺身のブロック・大やりイカ二匹を送ってくださいました。同婦人は魚の仲卸さんで、市場でセリに立つのは控えて、事務処理をしている由。選挙が縁で、あれこれ電話でおしゃべりしている内に、祝いをいただくことになりました。こうして酒と肴が揃い、カミサンとふたり、時ならぬときに大宴会を催しました。

 8月末、約1ヶ月過ごした八ヶ岳から帰ると、借りている約70坪の畑は、手ごわいメヒシバ・ハマスゲ・ドクダミのほか、オニツユクサなどが数少ない作物を覆っているのを見て、呆然と立ち尽くしました。そのうえ、8月30日から9月4日まで雨が降り続き、それが止むと猛暑が戻ってきました。けれども、もう放置できません。8月28.29日と9月5日から昨日まで、都合11日、1回60~90分、蚊にやられながら大汗をかいて、やっと目鼻が立ちました。これも喜寿の祝い酒がおいしくいただけた理由です。原発事故から2年半以上入れない、立ち入り禁止地帯のことが思いやられます。

 その原発事故。無責任な東電や安倍さんに任せておいては、収束の見込みがないように思います。まず、事故収束や原発事故補償の障害となっている東電を破産処理し、収束スキームから外し、非「原子力ムラ」の政治家・科学者・研究者のなかからトップを決め、その下に収束プロゼクトチームを作る。目下、現場で命がけで収束に当たっている作業員の意見を聞き、待遇を改善することなど、「オールジャパン」で収束に当たらねばならないのではないでしょうか。

 原発再稼働・外国への輸出は止め、既存の原発廃炉、再生可能エネルギー転換、原発事故被害に対するこころのこもった補償を並行して行うこと、素人ですが、最低これだけは行うべきではないでしょうか。

2013年9月11日水曜日

安倍首相 世界に向かって大ウソ


「世界」10月号の特集は「イチエフ 未収束の危機」。非「原子力ムラ」の科学者、京大原子炉実験所助教の小出浩章氏は、目下問題となっている原発から漏れ出ている、8000万ベクレルという汚染水がどれほど怖ろしいものかを説明し、これまで汚染水を10万トンタンカーで新潟柏崎原発に運び、目下全機停止中の廃液処理装置で処置すること。原子炉建屋周辺に深い遮水壁を建設し、炉心と地下水の接触を断って、汚染を局限化することなどを提案したが、実現しなかったことを開陳。また、今後の問題としては、原子炉を水で冷やし続ければ、汚染水が増加するのは避けがたいので、人類が一度たりとも経験したことがないことだから、うまくいくかどうかわからないけれど、事故直後にヨーロッパの方から提案された金属での冷却についても、再検討すべきではないかと提案しておられます。 


八子ヶ峰のウメバチソウ
文章とは関係ありません
 折しも、わがアベ首相は、オリンピック総会の東京招致プレゼンで「汚染水の影響はイチエフの港湾0.3平方㎞の範囲内で完全にブロックされています」「健康問題については、いままでも、現在も、将来もまったく問題ないということをお約束します。さらに完全に問題ないものにするために、抜本解決に向けたプログラムを私が責任を持って決定し、すでに着手しています」と述べたと報道。なんという厚顔無恥! オレオレ詐欺ヤロウ! 恥を知れ!


小出氏の文章の結びはこうです。「再稼働など論外であるはずなのですが、安倍さんは再稼働のみならず、新規に原子力発電所を建設することをめざし、さらに世界一の原子力技術で原発を輸出すると言っています。まことに、正気の沙汰ではありません」(この文章はいうまでもなく、アベプレゼンの前に書かれたものです)
正気でない人を首相とする 国民やあわれ
 

夏の八ヶ岳山麓滞在では、例年茅野図書館で、主に地もとの出版社の本を借りて読むのを楽しみにしてきましたが、今年は日和続きで山登りに忙しく、「ブック・オフ茅野店」の105円棚から、高杉良「ザ ゼネコン」、山田太一「沿線地図」「君を見上げて」、帚木篷生「ヒトラーの防具」上下を買ってきて読みました。 

「ヒトラーの防具」はドイツ人の父親を持つ青年が、台頭してきたヒトラーに、剣道の防具を献呈する日本財界の行事に通訳として起用され、引き続いて外務省の武官としてベルリンに滞在し、ナチスの覇権と敗退を身近に経験していく物語。帚木篷生さんは、これまで多様な問題をモチーフに、物語を紡いでこられましたが、この本は日本憲兵の戦後を描いた「逃亡」と同じく戦争を扱いながら、ヒューマニズムに満ちた感動的な本で、夢中になって読んだところです。

2013年8月28日水曜日

六人目の孫はビッグベビー

ビッグベビーは熟睡中(ママ写す)

 27日宵、息子に2番目の子ども、私には6番目の孫誕生。女です。かなりの難産で、分娩室で立ち会った5才の長男が、母親を「がんばれ、がんばれ」といって励まし、この日一番のビッグベビー3,644g、ようやく出産にこぎつけたそう。

 

 さしもの猛暑も、先日の大雨と一緒に去ったようで、朝方は涼しくて、タオルケットが手放せません。日中は33℃くらい、これなら何とかしのげます。もっとも、この約一ヶ月の間に、クヌギ・エゴ・ケヤキなど、伸びにのびた庭木は、狭い庭をいっそうせまくして暑苦しい。また畑の雑草は、見ただけで卒倒しそうなほど辺りを侵食し、作物を覆っています。しかし、これも1ヶ月遊んでいたツケ。汗を流し、蚊にやられながら、剪定と草むしりに敢然と取り組んでいます。

 

 旅の記憶では、カミサンの希望で訪ねた諸ミュージアムや、ライト山行ばかりの9回の山行もさることながら、恒例の労組婦人部有志同窓会、45年ぶりに会ったN君、数ヶ月前自転車走行中車に追突され、大けがをした同夫人、7年ぶりにお会いした岡崎の天野弁護士など、古い友人と会って話し合ったことが、深く印象に残っています。

 

 来年のことをいえば鬼が笑いますが、弟も周りも、往復には公共交通機関を利用してくださいといいますが、向こうで車なしでは始まらないし、来年まで元気でいられる保証もない、その時はその時考えるにことにして、さし当たっては草むしり、草むしり!

2013年8月22日木曜日

納めの山 八子ヶ峰

 朝ごはんを仕掛けていると、ベランダの床を叩く雨の音。久しぶりです。しかし、すぐに止みました。空はうす曇り。21日はこの夏10回計画していた山行の、9回目を実行する日です。これで打ち止めにするつもりで出かけました。

八子ヶ峰の草原

 

 行先は、ここ数年「納めの山」にしている、八子ヶ峰(やしヶみね1,833m)東急トレッキングコース。西登山口から30分も登ると、広々とした草原で、堂々たる山体の蓼科山を左に見ながら、ほとんど高低のない、緩やかな登山道を歩きます。ススキの穂が風に揺れ、赤とんぼがせわしなく舞い、夏の花に代わって、秋の花がそちこちに咲いています。山頂三角点は立科町側にあるようですが、茅野市側にある東峰が1,869mでほんの少し高いよう。
コウリンカ






マルバダケブキにとまる蝶
   この夏の山行を振り返ってみると、すべて1~6時間のライトなものばかりでしたが、天狗岳や大岳の岩稜歩きでは、身体が微妙に傾ぐのを自覚しました。今日も約2時間のライト山行ですが、これでトシ相応ではないかと、自分を慰めながら降りてきました。帰り道、色とりどりのコスモスが風に揺れています。それを見て、急に里ごごろが湧くのを感じました。
 





 明後日24日、こちらを早くたって、犬山の松永君と会い、身体の具合が芳しくない奥さんを見舞ってから、暑い九州に帰ります。
     (「蓼科だより」10)

紫色鮮やかトリカブト

2013年8月20日火曜日

守屋山に登りました


 朝起きぬけの気温は20℃くらい、日中は25℃くらいです。お盆の間は、多くの家や周りの林の中で人声がしていましたが、いまはひっそりしています。学校では夏休みが終わって、新学期がはじまりました。これに合わせて、弟の勤めている塾でも平常の勤務となり、午後3時にヒュッテを出て、午後9時ごろ帰荘してきます。秋が着々としのびよってきています。

トリカブトの紫が鮮やか
 

 昨日は八ヶ岳連峰と対峙し茅野市と伊那市の境にある、守屋山(1650m)にひとりで登りました。守屋山の頂上には、諏訪神社の本体が祀ってあり、地もとの人の信仰をあつめていると、ものの本には書かれています。登山口は市境の杖突峠、ここを伊那側に下った立石登山口、下りきった守屋神社の三つで、私は守屋神社前に車を置き、15分ほど登ってから、山腹を巻いて立石登山道に移るのを試みました。これでそうとう消耗しましたが、130分で頂上の西峰に着きました。

 

 山頂標識には、「日本展望の山100」とあるように、山頂からは北・中央・南アルプスを望むことができるのですが、この日は、残念ながらけぶって見えません。この夏8回目の山行はこうして終わりました。                                               「蓼科だより」9


守屋山のナデシコ

故天野末治弁護士のことを知る


 吹き抜けのあるダイニングキッチン全体に、パンの香ばしいかおりが広がっています。弟夫人がヒュッテにいない日の食事の用意は私で、主に和食ですが、パンメーカーでパンを焼くのは弟の仕事。今朝は焼きたてのパンに、ベーコンエッグと野菜サラダを添え、食べ終えると弟が恒例のコーヒーを入れてくれました。静かな朝です。

 

 先週の木曜日、「御岳さんを降りて(自分の)別荘に行く途中、文男さんに会いに行きます」(要旨)という、岡崎の天野茂樹弁護士から弟宛のメールを見せられました。天野弁護士は20年以上前から、北八ッヒュッテにほど近い1700mの高所に、別荘を持っておられる弟の知り合い。私も2005年に一度お会いして、これはあやふやですが、地もとで憲法や法律相談などの講師として活動されていると伺って、手紙を出したことがあります。しかし、お返事をもらった記憶はなく、このたびの用向きも思い当たりません。ともあれ、弟でなく私の名をあげて来荘されるというので、いくぶん緊張しました。

 

 土曜日の午後4時過ぎ、友人のSさんと一緒に見えた天野弁護士は、ベランダにしつらえたテーブルで、父のことが書いてありますといって、「正義と人権の旗たかく」と題した、自由法曹団愛知支部結成50年誌(1997年発行)を私に手渡され、Sさんや弟には、2005年に私が出した手紙と山の写真(これを同封した記憶はありませんでしたが…)を披露されました。また、私にはエビスビール(500)1箱もプレゼントして下さいました。しかし、ほかに格別な説明もなく、5時過ぎには自分の別荘に帰って行かれました。私はそのあと「先生は不思議な人ですね」というメールを出しました。

 

昼下がり、弟とコーヒータイムでくつろぐ
 その夜、私は「正義と人権の旗たかく」を開きましたが、全部で156ページのこの本の95ページから135ページに「輝かしい闘いの軌跡」-弁護士天野末治先生を偲んでーと題する評伝が載っていました。それによると、茂樹先生のご尊父・天野末治弁護士は1901年(明治34年)生まれ、京都帝国大学を卒業後、1928年には名古屋で弁護士事務所を開き、日本農民組合の顧問弁護士となり、小作料減免と土地取り上げに反対する農民や、労働者の弾圧に反対する闘いを支援して不眠不休の活動を続け、僅かに借地借家事件などによって、やっと事務所と家計が維持されたと書かれています。

 

 こうした活動が、天皇制警察の目に留まらないはずはなく、たびたびの検挙拘束ののち、1935年治安維持法違反で懲役2年(執行猶予3年)の判決を受け法曹資格失い、1939年に資格を再取得。戦後はいち早く活動を開始し、数多くの農民と労働者の闘いに参加・指導。なかでも、「大学の自治と警察権の限界」をめぐって争われた愛知大学事件や、メーデー事件・吹田事件とともに、三大騒擾事件といわれる大須事件弁護団長として力を尽くされます。また、自由法曹団東海支部の礎として、後輩弁護士に大きな影響を与え、生涯「正義と人権の旗たかく」たたかいつづけた、天野末治弁護士は1976年没。

 

私はこの評伝を読んで、水俣病裁判で現地に住み込み、水俣病患者に寄り添って、「勝つまでやるから負けない」をモットーにたたかってこられた、久留米の馬奈木弁護士や、足尾銅山事件で奔走した田中正造翁をイメージし、「信念にしたがって、ブレずに生きなさい」と背中を押された気がし、茂樹先生(男ばかりの5人兄弟で、弁護士になったのは茂樹さんにひとりだという)に格別の親しみを感じたところです。
(「蓼科だより」8回)