2013年6月1日土曜日

Nさんの見舞いをかね、北浦海岸を訪ねる

 Nさんからもらったことしの年賀状に、パーキンソン病を患っていると書いてあったので、電話でご様子を伺い、患者の闘病記専門店「パラメディカ」から関係本数冊を取り寄せて送り、暖かくなったら伺いますといっておいたので、少し遅くなりましたが、5月30日、妻と山陰・北浦海岸の、海辺に近い同氏宅を訪ねてきました。

 Nさんは同じ会社の1年先輩、私とは違って根っから穏やかな人で、在職中は無軌道な私ともこだわりなく付き合ってもらいましたが、私が1975年に会社を辞めてからお会いしたのは'76年の一度きりで、以後は年賀状を交換するだけの関係になっていました。したがって、お会いするのは実に37年ぶりです。

 近くまで行って、電話でお宅の場所を尋ねたので、Nさんも奥さんも家の前で待っておられました。Nさんは歩行がやや不自由で、ステッキを右手に持っておられました。顔・形は年相応の老けようですが、昔の面影ははっきり残っています。ただし、あとで聞いたところでは、聴力が衰え補聴器は欠かせず、通院に必要な車の運転も不安があるので、免許証は返上したとのことでした。逆に、私については、道で出会ってもとても確認できないといわれ、流れた年月の長さを、たがいに思い知りました。

きれいな海をまたぐ角島大橋
 Nさんは病気治療のため、小倉と近くのの病院に通っており、これがなかなか骨がおれる由。唯一の楽しみは畑仕事で、住まいに続く納屋には小さな耕運機も置いてあり、約60坪の畑はきれいに整地され、トマト・きゅうり・サツマイモ・三度豆などが整然と植えてありました。私はリビングに置いてあった、子どもが置いていったという、パソコンがまだ使えるのをたしかめ、これを使って楽しみの領域を広げられるように勧め、そのために私が支援することを約束してきました。

 下関市北部の北浦海岸は、当時は豊浦町、豊北町とよんでいましたが、実は私がサラリーマンとして、最後の1年を送ったところです。Nさんのお見舞いに、妻が乗り気だったのも、おそらく同じように、懐かしい思い出の地だったからでしょう。

中本たか子生誕碑
 このため私たちは、Nさんを訪ねた機会に、山の中にある大河内温泉で入浴したうえ、当時は渡船で行き来していた、角島に車で橋を渡り、食事した後、食堂でもらった地図に載っていた「中本たか子文学資料館」を訪ねてきました。しかし、残念なことに、「資料館」はすでに『下関市立近代先人顕彰館』に移転し、生誕碑と歌碑だけが生垣沿いに残っていました。


 「Wikipedia」によると、中本たか子は1903年角島に生まれ、1930年東洋モスリンの女工オルグ中拘束され、以後保釈・入獄を繰り返し、1941年には蔵原惟人と結婚、1991年に亡くなるまで、詩・歌・評論・小説などを書きつづけたようで、私は「わたしの安保闘争日記」(1963年刊)しか読んだ記憶がありませんが、中央から遠く離れた孤島から、ひとり荒海に漕ぎ出した、女性活動家に思いをめぐらしたところです。

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