吹き抜けのあるダイニングキッチン全体に、パンの香ばしいかおりが広がっています。弟夫人がヒュッテにいない日の食事の用意は私で、主に和食ですが、パンメーカーでパンを焼くのは弟の仕事。今朝は焼きたてのパンに、ベーコンエッグと野菜サラダを添え、食べ終えると弟が恒例のコーヒーを入れてくれました。静かな朝です。
先週の木曜日、「御岳さんを降りて(自分の)別荘に行く途中、文男さんに会いに行きます」(要旨)という、岡崎の天野茂樹弁護士から弟宛のメールを見せられました。天野弁護士は20年以上前から、北八ッヒュッテにほど近い1700mの高所に、別荘を持っておられる弟の知り合い。私も2005年に一度お会いして、これはあやふやですが、地もとで憲法や法律相談などの講師として活動されていると伺って、手紙を出したことがあります。しかし、お返事をもらった記憶はなく、このたびの用向きも思い当たりません。ともあれ、弟でなく私の名をあげて来荘されるというので、いくぶん緊張しました。
土曜日の午後4時過ぎ、友人のSさんと一緒に見えた天野弁護士は、ベランダにしつらえたテーブルで、父のことが書いてありますといって、「正義と人権の旗たかく」と題した、自由法曹団愛知支部結成50年誌(1997年発行)を私に手渡され、Sさんや弟には、2005年に私が出した手紙と山の写真(これを同封した記憶はありませんでしたが…)を披露されました。また、私にはエビスビール(500)1箱もプレゼントして下さいました。しかし、ほかに格別な説明もなく、5時過ぎには自分の別荘に帰って行かれました。私はそのあと「先生は不思議な人ですね」というメールを出しました。
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昼下がり、弟とコーヒータイムでくつろぐ |
その夜、私は「正義と人権の旗たかく」を開きましたが、全部で156ページのこの本の95ページから135ページに「輝かしい闘いの軌跡」-弁護士天野末治先生を偲んでーと題する評伝が載っていました。それによると、茂樹先生のご尊父・天野末治弁護士は1901年(明治34年)生まれ、京都帝国大学を卒業後、1928年には名古屋で弁護士事務所を開き、日本農民組合の顧問弁護士となり、小作料減免と土地取り上げに反対する農民や、労働者の弾圧に反対する闘いを支援して不眠不休の活動を続け、僅かに借地借家事件などによって、やっと事務所と家計が維持されたと書かれています。
こうした活動が、天皇制警察の目に留まらないはずはなく、たびたびの検挙拘束ののち、1935年治安維持法違反で懲役2年(執行猶予3年)の判決を受け法曹資格失い、1939年に資格を再取得。戦後はいち早く活動を開始し、数多くの農民と労働者の闘いに参加・指導。なかでも、「大学の自治と警察権の限界」をめぐって争われた愛知大学事件や、メーデー事件・吹田事件とともに、三大騒擾事件といわれる大須事件弁護団長として力を尽くされます。また、自由法曹団東海支部の礎として、後輩弁護士に大きな影響を与え、生涯「正義と人権の旗たかく」たたかいつづけた、天野末治弁護士は1976年没。
私はこの評伝を読んで、水俣病裁判で現地に住み込み、水俣病患者に寄り添って、「勝つまでやるから負けない」をモットーにたたかってこられた、久留米の馬奈木弁護士や、足尾銅山事件で奔走した田中正造翁をイメージし、「信念にしたがって、ブレずに生きなさい」と背中を押された気がし、茂樹先生(男ばかりの5人兄弟で、弁護士になったのは茂樹さんにひとりだという)に格別の親しみを感じたところです。
(「蓼科だより」8回)